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罪を憎んで人をもっと憎んで 2 [車/バイク]

読売新聞 裁判で求刑意見述べる「被害者参加制度」導入…法制審

 法制審議会(法相の諮問機関)の刑事法部会は30日、犯罪被害者・遺族が刑事裁判で直接、被告や証人に質問し、検察官とは別に求刑の意見を述べる権利を認める「被害者参加制度」と、刑事裁判の判決後に同じ裁判官が被害者側の損害賠償請求も審理する「付帯私訴制度」を導入する要綱をまとめた。
 法制審は来月7日の総会を経て法相に答申、これを受けて政府は今国会に関連法案を提出する。
 被害者らが検察官や被告など刑事裁判の当事者に近い立場を得れば、従来の刑事裁判が大きく変わり、2年後に始まる裁判員制度への影響も予想される。
 被害者参加制度の対象になるのは、殺人、傷害など故意に人を死傷させた事件や、交通事故を含む業務上過失致死傷罪の事件など。被害者や遺族が「被害者参加人」として検察側の席に着く。弁護士に代理を依頼することもできる。

時事通信 「顔を見て震えるほど怒り」=遺族、改めて「厳罰を」-園児4人死初公判

 埼玉県川口市で脇見運転の乗用車が保育園児の列に突っ込み4人が死亡した事故で2日、業務上過失致死傷罪に問われた井沢英行被告(38)の初公判後、傍聴を終えた遺族が会見した。娘の陽南子ちゃん=当時(3つ)=を亡くした盛山哲志さん(26)は「初めて被告の顔を見て、震えが止まらないほど怒りが込み上げた」と重い声で話した。
 初公判で検察側は、過去の脇見運転による事故歴や、カーブを高速で曲がったり急加速を好んだりする運転癖を明かした。
 これに対し、遺族は「いずれこうなると分かっていたはずだ。車ではなく、被告が凶器だった」と怒りをあらわに。「今のうちに厳罰に処しておかないと、次の犠牲者が出る可能性が高い」として、重い処罰を求めた。


意図的にこの2つのニュースを並べました。今の風潮は結果責任主義に基づく厳罰化の流れが止まらなくなっています。
以前、m3.comブログで「罪を憎んで人をもっと憎んで」を書きました。この記事には、被害者の立場からの厳しいコメントも頂戴し、それに対して更に私の考えをお示ししました。

たとえ過失であっても肉親を奪った事故のもう一人の当事者=加害者は憎いと思います。事故さえなかったら‥という気持ちは痛いほどわかります。しかしこれを過失の加害者の厳罰化に直結させる、単純な思考に待ったをかけたいのです。

加えて、遺族が怒りを法廷の中でぶちまける。判決を重い方にシフトさせる力になることが予想されます。これが冷静な判事の判断に委ねられるのならともかく、素人集団である裁判員がハンカチなど顔に当てながら聞く。この結果導き出される浪花節判決が怖いと思います。それこそこのシステムが恣意的とは言えないでしょうか。

遺族の方の気持ちは察した上で、もう一度敢えて問いたいと思います。
加害者を厳罰に処して、それで溜飲が下がるのでしょうか。遺族の傷ついた心が救われるのでしょうか。

もう一つ、こういう事故で必ず被害者・遺族の立場になったら、という想像は誰でもできます。そしてそれが厳罰化などという風潮を後押ししています。
しかし自分が加害者になってしまったら、ということもぜひイメージして頂きたいと思うのです。
医療事故における医師、航空事故におけるパイロット、という想定のイメージは難しくても、車を運転する人なら誰でもいつ加害者になるかわからないのです。車を運転しない人でも、自転車でいつ誰とぶつかって転倒させ、死亡・ケガさせないとも限りません。歩いていても何が起こるかわかりません。
こうした事故を起こしてしまった後、高額の損害賠償を支払い、自分の職をも失う。さらに追い打ちをかけるように懲役刑に処せられる。こうしたことを想像してみて欲しいと思うのです。今までの自分の生活の殆どを否定され奪われてしまうのです。本当にそれで良いのでしょうか。

私は厳罰化には反対です。ヒューマンエラーは絶対にゼロにできません。医療も航空機も道路の構造・規制も、いかにシステムのエラーをなくし、工夫して事故を減らすか、そちらを考えるべきです。
医療事故ではそれが始まっています。航空機のコックピットはもっと進んでいると聞きます。一方交通事故多発箇所の道路の整備はもう一歩遅れているように思います。「同じような犠牲者をもう出させたくない」‥そういう思いを実現するためには、こちらの整備にもっと目を向けるべきではないでしょうか。


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yoccyann

自分の気持ちの報復の可能性を冷静にみることは被害者にとって困難だと思います。ひどいと思うほどその可能性が強くなるだろうということは予想できます。
人間はたいてい「自分は報復するようなやつではない」と思いたい部分がありますから、以後のため、などどいうすり替えも起こりえると思います。

「遺族の気持ちを汲んでの厳罰化」とか、そういうことを認めていくのは、社会が幼稚化を容認することに加え、事故や事件を防ぐシステムつくりを後回しにできる利点があるのでしょう。
・・・クレーマーと同じ感じがするんですよね・・・。給食費滞納も似たようなにおい。

筍先生と同じ、私も厳罰化は反対です。
by yoccyann (2007-02-12 22:04) 

筍ENT

コメントありがとうございます。私が言いたかったことを十分言えなかったように感じていましたが、yoccyann先生に言い尽くして頂けました。

報復の発想は不毛だと思います。
by 筍ENT (2007-02-12 22:12) 

結果責任?

この事件は、ヒューマンエラー(人による誤差)ではありません。あの狭い道路で60キロ以上の速度で走ることは、どこかで事故を起こす可能性が「必然」に近いといえます。園児の列につっこんだのは、気の毒としても、事故を起こす確率の高い人が事故を起こしたのです。悪質な運転癖を持つ人を問い質すのに厳罰化はやむを得ません。原因をしっかり、検証するべきです。
by 結果責任? (2007-03-17 11:04) 

筍ENT

事故現場の道路状況を確認できた訳ではないのですが、本来守るべきスピードを大幅に超えて暴走していたのなら、確かにそれは悪質な運転癖というべきかも知れません。

そこまでは良いのですが、結果としてたまたま人身事故を起こしてしまった、ということで、それはやはりあくまでも過失であることに変わりないと思うのです。

もし「人のひとりやふたり、ぶつかって死傷させてもいいや」と思って運転していたのなら、これは未必の故意であり、業過致死傷ではなく、殺人罪で起訴すべきということになるでしょう。

現実の結果は悲惨な事故となってしまった訳ですが、この運転者に求めることは、被害者に対するきちんとした民事的賠償、行政処分=免許取り消し・欠格期間の設定だと考えます。何年か余計に収監することが、被害者や運転者本人、そして他の全てのドライバーのために何か効果を上げるだろうか、ということに疑問を持っているのです。
先に書きましたように、遺族感情を持ち出すと、日本の法はハンムラビ法典に近づいて行きかねないと思うのです。感情論で厳罰化を説くのは危険だと考えます。

原因検証ということについても考えてみます。
事故現場の道路設計には問題がなかったか、ということも考えるべきでしょう。時々みかける、道路に故意に凹凸をもうけたり、わざと蛇行させてスピードをあげて走りにくくしてある道路なども一つの方法です。また、現在の技術力を以てすれば、道路の幅を車が認識し、速度リミッターを作動させる、というようなことも可能になるかも知れません。
これらはすぐ実現可能とは限りませんが、加害者を糾弾することにばかり目を奪われず、エラーが起きないような工夫を、違う角度からも考えるべきではないでしょうか。
by 筍ENT (2007-03-18 08:55) 

たか

記事の掲載から時期がずれてしまっていますが、はじめて記事を目にしたので、感想を言わせてもらいます。
記事をかかれている内容とコメントからの印象をいいますと、
「故意の事故であれば、それは裁かれるべきだが、不注意から発生する(筍ENTさんの言うところのヒューマンエラー)事故ならば、仕方がないじゃないか。」
こういっているようにもとれます。それでいいのでしょうか?

車は凶器なんです。使い方次第で殺人の道具ともなります。
車を運転する人間は、そのことを常に意識していなければ、なりません。車=便利なツールだけの認識ではいけないのです。

この事件で言えば、小学生の通学路になっているような場所で、社内で自分で音楽を聴くためにカセットを変えるという動作を行い、そこから発生する不注意で人を殺めてしまった。
これが「不注意だった。反省している。」だけで許されることでしょうか?
違う角度というのであれば、加害者のことばかりではない角度から見ることをお勧めします。
by たか (2007-06-16 23:02) 

たか

コメント連投失礼いたします。

結果から言うと、厳罰化は私は賛成です。
凶器を持ちながら、凶器を持っているという意識がない。
これは「罪」です。
この事件でも、カセットを交換したければ、止まってから換えれば済むことだったでしょう。法廷速度を守っているか、いないかの問題ではないのです。
危険認知もせずに、人を殺めてしまったのです。
「それがたまたま小学生の列だった」では済む話ではありません。

道路上のヒューマンエラーを防止するための対策ももちろん必要ですが、それは人の意識の改革とともに行われなければ意味を成しません。この対策もまた絶対ではないのですから。

厳罰化による人の意識の改革と安全対策、これが平行に進められてこと、「不注意による事故」はなくなるのです。
by たか (2007-06-16 23:31) 

筍ENT

たかさん、コメントありがとうございます。この記事からはだいぶ時間が経ってしまいましたが、実はずっと同じような事例を取り上げては、私の考察を述べておりますので、ご意見は大変参考になります。

まず、事故が起きてしまった後、不注意の事故なら仕方がない、ということ。原則これで良いと思います。事実、業務上過失致死傷罪は「過失はこれを罰しない」という刑法の例外規定として存在するようです。もちろんこれは刑事であり、不法行為の結果は償わなければならず、こちらは民法の分野になります。
従って自動車事故にあっても、当然被害者や遺族に対する補償はきちんと行われなければなりません。

しかし刑事罰は誰を幸福にするのでしょうか。被害者の側から見た取材記事を他の記事に紹介しました。よろしかったらご覧下さい。
http://blog.so-net.ne.jp/takenoko-ent/2007-05-17-2

車が凶器であるという考え方、確かにある意味その通りです。ただ悪意を以て相手を刺そうとする凶器とは根本的に違います。故意による殺人・傷害のためのナイフ・包丁を指す凶器という言葉を車の例えに使う時は、この点注意が必要かと思います。

言い換えれば人を轢こうと思って運転している人はいません。いくつかの記事やコメントに書いたように、やはり故意による殺人・傷害と、業務上過失致死傷をきちんと区別して行きたいと思っているのです。

何回も書いてしまったので、読んで下さっている方によっては申し訳ないのですが、「刑罰は復讐であってはならない」と信じます。

カセットを交換しようとしたドライバー、前方不注意の典型です。やってはいけないことだったと思います。しかしハインリヒの法則というのがあります。1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300の異常が存在するというものです。これを当てはめれば300人のカセットを交換しようとしたドライバーのうち、29人が危うく事故を起こしそうになり、1人が本当に事故を起こしてしまったということになります。
厳罰化による人の意識改革、と言うことですが、この1人を厳罰化に処すことを以て残りの299人に注意を促す、ということだとすれば、この1人はスケープゴート、ということになります。残りの299人の大半が他人事としてその判決を聞き、私はたぶんそういう事故は起こさない、と思ってしまっているのではないでしょうか。意識改革のためにはもっと違うアプローチが必要と思います。
by 筍ENT (2007-06-17 17:43) 

たか

誤解があるようなので、付け加えますが、
>故意による殺人・傷害のためのナイフ・包丁を指す凶器という言葉を車の例えに使う時は、この点注意が必要かと思います。
とありますが、変わりませんよ。ナイフ・包丁とも。
どちらも本来の目的は、人を殺害するためのものではありませんよね?ナイフも包丁も本来は調理等のために使うツールです。車も人を運ぶためにあるツールです。本質はなんら変わりありません。しかし使い方を誤れば殺傷能力がある。そういう意味で「凶器」です。銃や日本刀となれば話は変わるかも知れませんが、「人を殺すための道具」=「凶器」ではありません。

振り回せば、人を傷つける恐れのあるものを扱うときには、そうならないように注意するのは必然です。

まして、ナイフ・包丁とは違い、車には「運転免許」というそれを扱うための免許を必要としています。そういう教育を受けた上で扱うことを許されているのです。(まぁ、その教育が足りない等の問題があるのかも知れませんが)
運転免許は車を扱うことを許されると同時に、その使い方を誤れば、それに対する責任も追及されるものです。つまり、今回のことも教習所で危険認知として教育を受けている範疇での不注意です。免許が交付されたということを、ただ車を運転できるようになったと考えるだけの人間が、こういう事故を引き起こします。
原則は、「車は鉄の塊である」なんですよ。鉄の塊という凶器に成りえるものを扱う以上、最大限注意しなければならない。

そして、人間という生き物はそんなに高尚な生き物ではないので、いくら安全運転を広報したところでその考え方は広まりません。自分の身に降りかかることでこそ、実感し、認識する。
そうであれば、厳罰化は避けられないと考えています。

そもそも私は、「業務上過失致死」の適用のされかた自体に疑問をもっています。「業務上」の適用範囲が広すぎるのではないでしょうか?
厳罰化というのであれば、適用範囲を狭めることのほうが重要ではないかと考えています。
「起こるべくして起こった過失(危険運転)」に対しては、別の罪状を適用するべきだと考えます。
(そのあたりの適用の解釈の問題で、改法が難しく、今回の年数引き上げとなっているようですが)

最近の事件では、酒を浴びるほど飲み、ファミリーの乗る車に衝突し、子供を死に至らしめる事件がありましたが、
そこでは、「本当に回避できないほど飲んでいたか、飲酒量が争点になる」などと言っている。これが私には信じられません。
筍ENTさんの言うところでは、「殺そうとしたのではないから、この事故の加害者もやはり救済されるべきだ(厳罰されるべきではない)」となるのでしょうか?
そうだとすると、根本的な考え方が違うため、私は閉口せざるを得ませんが。

ちなみに私はこの厳罰化を遺族感情とは別のところで捕らえています。
というのも、私は過剰なマスメディア報道と、マスメディアに対して政治家が納得させるための方便として使っているに過ぎないと思っているからです。
民事・刑事で解決すべきであるという部分では、認識は一緒です。ただ違うのは、刑事罰はもっと重くてもよいということ。
「人の命を奪ったということに対して、罪を背負う」これは必要と思います。

ただし、マスメディアでの過剰な報道による必要以上の個人の攻撃。これはあるべきではないと考えています。これは事故を起こした加害者ばかりではなく、何の罪もない加害者の身内すらも不幸にすることがあります。
「加害者のその後」ということであれば、刑事罰云々よりも、報道のあり方にこそ、問題を提起すべきではないかと思います。
この国の報道は、「報道の自由」をかさにきた横暴ぶりが目にあまることがあります。
by たか (2007-06-17 21:28) 

筍ENT

引き続きコメントありがとうございます。

仰る通り、ナイフ・包丁については、私の方で勝手にその後ピストル、ライフル‥と連想をしてしまい、殺戮目的の凶器のカテゴリーに入れてしまいました。当然紙や食材を切る道具、人を傷つける目的のものではありませんでしたね。失礼しました。

車は危険なもの、それを取り扱うのに免許制度が出来ている、その通りですね。何らかの危険をはらむが、現実社会では必要なものを取扱うのにこうした免許制度を作り、教育の機会を作って事故のリスクを減らそうとするシステムが出来ているのは、車の他に、航空機、電車、最近の話題ではジェットコースターの運営(免許ではないが検査、ですね)、医療などが挙げられます。

実はその医療過誤についての考察を敷延するうちに、よく対比される車について考察を加えて来たという経緯があります。その患者さんのためにベストを尽くそうとする医療者という相互の立場と、行きずりの相手との交通事故は、ちょっと違うと思いますが、3つの責任(民事・刑事・行政)を問われるという点や、業過致死傷罪が適用されるという点で必ずと言って良いほど対比されています。

私個人としては、この業過致死傷罪というものが存在しない社会が理想ではないかと思い、色々書いて来ました。過失は過失、行政処分が科されるのは仕方ないとしても刑事罰がさらに加わる必要がどうしてあるのか、法学を修めたことがないので、その基本的な考え方が分かっていないのです。

ただ、たかさんのコメントで、私の考えていたことと段々一致点が見えて来たようで、少し心強く思っています。
例に挙げられた飲酒運転で海に車を突き落として子供が死亡した事件、いわゆるひき逃げでもあり、飲酒及び救命を怠った点で未必の故意による殺人にも近いと思われ、これには刑事罰が加えられても仕方ないかとも思います。

もともと本記事に取り上げたカセットテープ交換もその意味では、危険を承知で為した前方不注意とすれば、部分的に未必の故意による殺傷と言えるのかも知れません。
ただ、厳罰化は先のコメントでも挙げた、スケープゴート的な要素が大きいように思います。

罰を与えるとすればカセットを操作して前方不注意運転を行った点に関して咎めるべきであり、これは行政処分の範疇ではないかと思うのです。同じことをして結果何も事故を起こさなかった人は何もお咎めなし、ガードレールにぶつかった人はその修理代の負担=民事のみで良いのですが、不幸にして人身事故を起こしてしまった人だけを厳罰化するというのは何か腑に落ちないのです。しかもそれが例えば一人の人に軽症を負わせた場合と複数の人を死に至らしめた場合とで罰を変える、即ち結果責任主義という考え方は、感情的には理解できるものの、本来の刑事罰の精神に合っているのか、私が自分で納得出来ていないのです。結果責任主義=復讐に見えてしまいます。

最後のマスメディアの個人攻撃、交通事故もですが、実は医療事故にも向けられているんですね。奈良の子癇→脳出血妊婦たらい回し事件も、特に毎日新聞が恰も産科主治医が何もしなかったようなことを書き立て、非難を浴びせています。事実はずっと転送先を探すなど必死に勤めていたのに、それを一切書かず、医師を訴えようとしている遺族の方のお先棒担ぎとなってしまっています。

この点本当にたかさんの言われるとおりと思います。マスコミ報道を鵜呑みにしない姿勢でいたいと思っています。
by 筍ENT (2007-06-18 20:28) 

下地

私たちは被害者の立場に立てるわけないのに、「しかし」とか気取ったこと言わないほうがいいと思います。犯人を殺したいのに裁判で終わらそうとしてるのだから、それだけで立派なことじゃないかと思います。
by 下地 (2007-08-08 11:20) 

筍ENT

コメントありがとうございます。

「過失」である事故の後の加害者と被害者が、いかにその事故を解決し、被害者を精神面でも救えるかを色々考えています。

「犯人を殺したい」‥犯人という言い方には私は抵抗がありますが、‥という感情、実はこれは被害者側から見ても、時間の経過とともに違って来ると思います。

この点が故意による殺人・傷害と決定的に違うはずで、本当の被害者の救済と加害者の処遇について引き続き考えてみたいと思っています。

決して気取っている訳でも何でもありません。過失による不幸な事故でも、加害者に対して被害者は、故意による殺傷と同じような憎しみを持ち続けるでしょうか。私はそうは思えないのです。

今のところ幸い私自身も加害者にも被害者にもなっていません。ですから想像の域を出ないのは事実ですが、諸報道等から当事者の気持ちを少しでも汲んでみたいと思っています。
by 筍ENT (2007-08-08 17:38) 

aucun cou

法定罪刑主義は私刑からの脱却という視点で定められた理念だと思います。
ここで、遺族感情を汲み入れての厳罰化は、人類の進歩に逆行するものの様に思えます。
特に、過失に対する罪を問うことは、非常に問題だと思います。真実が語られなくなり、システムエラーが明らかに出来なくなることは想像に難くありません。
金融システムばかりでなく、こういった制度も国際標準にしなくてはいけないと思います。
by aucun cou (2008-06-11 02:06) 

筍ENT

aucun cou 先生、本記事にまでご訪問頂き、ありがとうございます。

私刑からの脱却という考え方、なるほどと思います。ご指摘の通り、遺族感情に依拠する厳罰化はそれに逆行するもの、本当にそう思います。

自分の身を守るために証拠を隠滅することは刑法で罰せられないことになっていますね。合法的に真実が語られないことになります。これがいけないのではなく、自分が刑罰を問われそうになる時の当然の権利でもあります。

過失はこれを罰しないこと。これが全ての真実を明らかにし、後に同じ事故が発生しないよう、ヒューマンエラーの余地を減らし、システムエラーをつぶす。そのために最低限必要なことと考えております。

ご指摘の通り、日本はこの点において後進国と思います。

コメントありがとうございます。
by 筍ENT (2008-06-11 19:52) 

鶴亀松五郎

スウェーデンとニュージーランドは、交通事故の裁判を起こさないようなシステムになっています。だから、日本の、この事件のような例でも刑事事件にはなりません。事故の被害者や遺族には国から補償金がでます。多額ではありませんが。
もちろん、事故を起こした当事者に全く責任を課さないということではありません。刑事事件化して厳罰を課すことが無いだけで、別の形での責任を取らせます。厳罰を課したところで交通事故は無くならないからです。そういう事故が起きないようなシステムを作り、徹底させることのほうが、事故そのものの数を減らせるからです。しかしゼロにはなりません。

両国は医療エラーや診療関連死にも同じ法律を適応しています。
医療従事者の医療行為によるものが原因であっても、治療の結果生じる合併症であっても、そうでなくても、民事裁判にも刑事裁判にもならないシステムです。
医療に関しては、同じ方式は欧州のいくつかの国やオーストラリアでも、取り入れられています。

また、欧米の先進国では、故意でない診療関連死や後遺症は刑事事件にはなりません(民事裁判にはなります)。そういう制度になっているからですです。
エラーは決してゼロにはならないから、エラーを罰するより、そういうエラーを予防するためのプログラムを作って、個々の医療機関や医療専門職が利用することでエラーは減らせるからです。

日本とは考え方が違うのです。

by 鶴亀松五郎 (2008-06-12 22:44) 

筍ENT

ご訪問ありがとうございます。

医療事故に関しては他記事でもご丁寧な情報・コメントを頂戴しました。ありがとうございます。
スウェーデン・ニュージーランドのシステムについて情報をありがとうございます。厳罰を科しても交通事故はなくならない、この当たり前のことを当たり前に捉えているこの2国と、日本の何という違いでしょうか。

日本で何か事故が起きる度に、バカのひとつ覚えのように繰り返される「厳罰化」の声。そして表立ってそれに異を唱える向きは極めて少ない状況です。

考え方が違う、という先進国と、この問題については確実に後進国である日本。どうしたら日本にきちんとしたこの先進的な考え方を導入できるでしょうか。まだまだ道は遠いようです。

コメントありがとうございます。
by 筍ENT (2008-06-13 22:46) 

NO NAME

確かに狭い道路での高スピード走行や大音量を流す行為は愚かだが、
その気があればそれができてしまう車の設計がまずい。
by NO NAME (2015-04-30 11:12) 

筍ENT

古い記事にコメントありがとうございます。でも今でも私の考えは変わっていません。

ご指摘のように、スピードを出せる構造、出すと危険な道路構造、そうしたものを無視してドライバーに全ての責任を押し付けた上に、それを厳罰化などと主張する。何か間違っているとしか考えられません。

ヒューマンエラーの余地を少しでも減らす工夫がまず求められると思っています。

ご訪問ありがとうございました。
by 筍ENT (2015-05-01 17:26) 

海苔

まず結果を考えましょうよ。それが全てですよ。
他人の命を奪っているのです。
加害者ばかりが救われて、被害者は一切救われていない。
つまり、やったもん勝ち。被害者は、泣き寝入り。
医療事故やゴールド免許の人の事故と、犯罪歴や無謀運転暦のある人間が起こした事故とを混同しないでください。
また、無力感や虚しさを感じている遺族の話など取り上げても、厳罰化反対には何の説得力もありません。
やりきれない思いをなんとかしようと、必死に自分を納得させようとうとしている遺族の様子もまた厳罰化反対には何の説得力もありません。
正直、殺してやりたいと考えて当然ですよ。
そうでないなら、自分以外の人間に無関心なだけでしょう。
もし私が事故を起こして他者を死なせてしまったとしたら、判決を粛々と受けた後、こう考えるでしょう。
「ああ、被害者やその遺族にならなくて良かった。加害者で良かった。だって例え今の生活が全部崩壊したとしても、出所後、食べていくだけなら何処でも働いて食べて生きていけますもの。賠償?踏み倒せばいいや!生きてて良かった!」
厳罰化反対の理屈は理解できますよ。ただ、本当にエラーを減らす改革をするとすれば、免許証保有者数と自動車の販売数は激減するでしょうね。
by 海苔 (2017-11-22 01:01) 

筍ENT

放置ブログにご訪問有り難うございます。過失による事故などに関心があって検索、見て頂いたのでしょうか。
私の書いていることは、上記の鶴亀松五郎先生のコメントに集約されているかも知れません。
海苔さんのご指摘の遺族のやりきれない思い、自分がその立場に置かれたらそういう感情は想像に難くありません。
ただ過失を為してしまった現行法で言う業過犯(?)を刑事罰に処すことにどこまで意味があるのか私は納得出来ないのです。
やはりヒューマンエラーを減らす~なくすことに社会が尽力するのが建設的と思っています。

このブログを一生懸命書いていた頃と比べて、車が追突や歩行者を感知して止まるようになって来ました。航空機はわかりませんが、医療でも工夫が為されていると思います。
私が主張して来た酒気帯び検知エンジン不始動装置はなかなか難しそうですが。

やはり過失を罰する発想がなくなっていくことを望みたいと思うのです。

by 筍ENT (2017-11-23 13:56) 

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