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刑法と死刑制度 [生活/くらし]

京都新聞 死刑制度の是非考える 下京、高村薫さん講演

大谷ホール講演.jpg 裁判員制度の導入を前に、死刑制度について考える集会が1日、京都市下京区の大谷ホールで開かれた。作家の高村薫さんは講演で「感情に流されず、公正な第三者として制度の是非を考えることが大切だ」と話した。
 大学教員や宗教者たちでつくる実行委員会が主催し、約400人が参加した。
 死刑囚が登場する最新作を発表した高村さんは「人を裁くには、常識や普段の感情とは異なる非日常的な理性が求められる。被害者、加害者どちらの立場でもなく、公正な第三者であることは難しい」と話し、市民が死刑判決にかかわる可能性もある裁判員制度への不安を語った。
 宗教者としてシンポジウムに参加した浄土宗大林寺(宝塚市)の木下達雄住職は、人間が間違いを犯す不完全な存在であることを強調し、「裁判員制度は、本来的に人ができないことを押し付けている」と訴えた。
 山口県光市母子殺害事件で弁護人を務めた安田好弘弁護士は「人を殺した人間を死刑にすることは、非難したことを自ら行うという矛盾に直面する」と話した。


大谷ホール.JPG今まで私が懸念していたことを、よくこのような講演で取り上げて頂けたと思っています。「感情に流されず、公正な第三者として制度の是非を考えることが大切だ」という発言は死刑制度に限らず、全ての量刑、というより刑法の適用に言えることだと思います。

多くの場合犯罪行為の報道を受け取った人は、加害者に怒り、被害者に同情の感情を持ちます。ある程度当然のことですが、マスコミの煽りもあって、必要以上に加害者に厳罰を、と簡単に考えてしまいます。ここで日本人の浪花節的であり、また仇討ちを美化する発想が影響してしまうと考えています。
刑法の歴史を知りませんが、刑事罰は決して応報主義であってはならないと思います。「生命は重いものである。よってこれを奪った者は命を以て償うべきである」という、よく耳にする死刑賛成論者の意見は応報主義の域を出ていません。ハンムラビ法典的と言えるのではないでしょうか。

高村薫.jpg私が一番危惧しているのは、過失をも罰する刑法の存在と、それについてもこの応報主義が持ち込まれることです。結果責任を重視するあまり、故意犯と過失の区別もなく厳罰を訴える声ばかりが大きく響きます。過失を罰する法がなければ良いのですが、現実にある以上、その運用には慎重になって欲しいし、適用する時に被害者感情に流されている現状は絶対に改めて欲しいと考えています。

そしてこのニュース記事にある死刑制度、私も廃止に賛成したいと思います。
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