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エリアフ・インバルと都響 [音楽/読書]

asahi.com 「古典を核にプログラム」 インバル、春から都響の主席指揮者に

 イスラエルの指揮者エリアフ・インバルが4月、東京都交響楽団のプリンシパルコンダクター(首席指揮者)に就任する。任期は3年。新たなファン層開拓が求められている都響。「古典を核に、現代音楽をどう織り交ぜるかが、プログラム作りの鍵だ」と語った。

 インバルは36年生まれ。マーラーやブルックナーを得意とし、フランクフルト放送交響楽団やベルリン交響楽団などを率いてきた。日本の楽壇とは35年のつきあい。都響でも、95年から00年まで特別客演指揮者を務めた。

 都響の演奏について「外来の指揮者から多彩な様式を吸収してきたためか、マーラーの演奏も、単に厚く重いだけのものから、軽みを帯びた力強いものになってきた」と評価する。

 4月の就任披露公演では、マーラーの交響曲第8番「千人の交響曲」を演奏する。翌年にはラベルを振る予定だ。「代わり映えしないとの声も聞く。でも、長く演奏され続けている曲こそが真に創造的で、新しいものを提唱できるのだと伝えたい」と語る。

 「新しいものを『進化』としてあがめるのは西洋の発想。変わらぬものに価値を置く文化を持ってきた日本人の方が、『創造』の本当の意味を知っているのではないですか」

 ただ、新作を軽視しているわけではない。新作を演奏することは「演奏家の義務」との思いがある。

 「ストラビンスキーの『春の祭典』の初演に立ち会った人の何人が、これがいつか古典になると想像したか。新作を世に出す人がいて初めて、100年後に古典になる曲が生まれる。私たちは今日も次のストラビンスキーやバルトークを聴いているかもしれない。そんな気持ちで一つひとつの作品の誕生に臨みたい」

 作品が後世に残るかどうかを決めるのは聴衆だ、とも言う。

 「聴衆は、いつの時代も本能的に『残るもの』を精査する力を持っている。評論家が酷評しても、残るものは残る。聴衆を過小評価し、専門家の意見に流されていては、本物は見抜けない。今こそ私たちは聴衆の力を信じるべきなのです」

 都響は、大ヒットドラマ「のだめカンタービレ」に全面協力したこともあり、クラシックの公演に初めて足を運ぶ聴衆が増えた。どんなプログラムで彼らを取り込むかが問われている。

 「若い人が新しいものを望んでいるとも限らない。ベートーベンやモーツァルトといった古典の公演に、好んで足を運んでいる。古典の中に現代音楽をうまく織り交ぜてプログラムを構成する。それは、とても創造的な仕事だと思います」

インバルの一ファンとしては取り上げない訳には行かない記事です。少し古い1月のものです。以前にもインバル/都響の第九についても書きました。

又聞きの伝聞になるので情報の確度は何とも言えませんが、H.カラヤン、C.アバドの後ベルリンフィルのシェフを決めるのに、S.ラトル、D.バレンボイムの名が上がったとされますが、この時インバルも候補には挙がっていたという話もあるようです。
もちろん結果的にはラトルが就任、その後のインバルは当時手兵のベルリン響を、ベルリンフィルに劣らぬオーケストラに育てるつもりだという発言をしていたと記憶しています。

そうしてみると、インバルの“野望”は果たされぬまま、日本の都響に着任する、ということになります。ファンとしてはちょっと複雑な気持ちではあります。

もう一つ気になったのが、先のフィルハーモニアオーケストラとのマーラー公演のプログラムに誰かが寄稿していた文章だったと思うのですが、最近インバルは丸くなったというコメントがありました。
インバルは客演も含めて、かなりきっちり練習しないと気が済まないという評を見たことがあったので、少なくとも自分の考えている音楽を最大限に聴衆に伝えようという意志が感じられました。ところが、丸くなったということは、ほどほどのところで妥協してしまっているのではないかという懸念があります。

しかし経緯はともかく、4月以降インバルの作り出す音楽に接するチャンスが増えることは素直に嬉しいことと考えたいと思います。これからインバルの演奏を聴いて、彼がどう変わっていくか、変わらないか、確かめたいと思っています。


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